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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [10]




 下卑た声音に俯く。
「今だって、あの山脇とかいう、一見優しそうだが腹の底では何を考えているのかはわからない男が用意したマンションで暮らしているんだろう?」
 なにも瑠駆真の事までそんなふうに言う事ないのに。
 思いながら反論ができない。
「別にお前に金で責任を取れなんて、そんな酷な事は言わないよ」
 口元を曖昧に緩め、携帯に添えていた白い指をさらに伸ばした。
「身体で払ってくれればいい」
「え?」
 白い指が、美鶴の首元に届いた。
 ユンミに引っ張られて乱れた首元。わずかに肌も覗いている。
「身体」
 顔をあげ、思わず身を引こうとするが、霞流の言葉がそれを許さない。
「この期に及んで責任を逃れるつもりか?」
「そんなつもりは」
「じゃあいう通りにしろ。いいか? 本来なら金を請求されても文句は言えない立場なんだぞ。それを身体で許してやると言っているんだ。お前に文句を言う権利は無いはずだろう?」
「そんな」
 震える唇でなんとか答える。その間にも白い指は首元を動き回る。掴んで引き剥がしたいと思いながら右手を動かすが、結局はそうする事もできず、ただ中途半場に手を宙に彷徨わせる。
 身体。
 まっすぐに前を向いたまま両目を見開く。目の前には霞流の顔があるはずなのに、唖然とする美鶴の瞳には何も見えていない。白い蛇のような指がうねうねと、不思議なほど優しく首筋を撫で回る。
「霞流さん、本気、ですか?」
「俺はいつでも本気だ」
 美鶴はギュッと唇を閉じ、視線を落す。
「今、ですか?」
 その言葉に、霞流は答えない。
「今ですか?」
 それでも答えない。美鶴はもう少し視線を落す。
「ダメですよ。霞流さん、そんな身体で無理に動いたら体調が悪化する」
「お前が暴れなければ済む事だ」
 霞流が薄ら笑う。美鶴は恥ずかしいのか悔しいのか、よくわからない感情で俯いた。
 なんて陳腐な言い訳。
 悪いのは私だ。だから私に拒否する権利なんて無いんだ。なのに嫌だからって、下手な理由をつくって逃げようとしている。
 逃げようとしている。
 自分はなんて情けないんだ。キッパリと覚悟を決めればいいではないか。そもそも霞流を振り向かせようとするのに、これくらいの覚悟は必要だったのだ。そんな事もわかっていなかったのか。自分はどこまで甘いのだ。
 命を取られるワケじゃない。霞流さんが欲しいと言っているのだ。差し出せばいいではないか。それで霞流さんが満足するのなら、身体くらいなんだというのだ。
「脱げよ」
 命令するような声に、美鶴はグッと下唇を噛み締めた。そうしてゆっくりと両手をコートの下のトレーナーの首元へ持っていく。冷たい、氷のような霞流の指と微かに触れ合った。
 そうだ、別に死ぬワケじゃない。霞流が死ぬかもしれないという恐怖に比べればこんなもの。
 そこでハッと瞳を見開く。
 霞流は死ぬかもしれない。
 ユンミの言葉が耳に響く。
 そうだ。霞流は死ぬかもしれないほどの重症なのだ。血だってまだ止まっていないのではないのか?
 こんな事を言っている場合じゃない。
「こんな事してる場合じゃありません」
「はぁ?」
「こんな事をしている場合じゃないでしょう」
 擦れる声を必死に絞り出し、美鶴はトレーナーの首元から白い指を引き剥がした。
「霞流さんは頭から血が出てるんです。大変な事になってるんですよ」
 言うなり携帯を持ち直す。
 そうだ、霞流は死ぬかもしれないんだ。それなのに、何を躊躇(ためら)っているのだ。おかしいではないか。
「やめろ」
 止めようとする白い指を素早くかわす。
「騒がれるのが嫌だとかって、そんな事を言っている場合じゃありません。霞流さんは死ぬかもしれないんですよ」
「何を大袈裟な」
「だってユンミさんが言ってました。体温だって下がってるって。このまま放置しておいたら本当に死んでしまうかもしれない」
 霞流が死ぬ。この世からいなくなる。
 そんなのは嫌だ。
 想像するだけで泣きたくなった。
「救急車を呼びます」
「そうやって責任逃れをする気か」
 呆れたような声音に、美鶴はゆっくりと瞬きをした。
「怪我が治ったらいくらでも責任は取ります」
 その時は覚悟しよう。
「だから、だからお願いです。救急車を呼びましょう。病院に行くんです」
 そうして携帯のボタンを押した時だった。背後で扉の開く音がした。ユンミが入ってきた。
「遅くなったわね」
 後ろ手で扉を閉めながら、足首を器用に回してヨレたサンダルを放り投げ、大股で寄ってくる。そうして、傍らの小さなテーブルに紙袋を置いた。
「連絡がなかなかつかなくて」
 言いながら中身を一つずつ取り出し、テーブルの上に置いていく。
「何です?」
 余所見をしている隙に、霞流の手によって携帯を叩き落された。だが美鶴はそちらに一度顔を向けただけで、再び紙袋の中身へ視線を戻す。
 出てくるのは紙に包まれた何か。そしてもう一つ。
「え?」
 目を疑った。
「それは」
 注射器。
 コトリと音を立てて置かれたモノに、美鶴の視線は釘付けになった。
「注射器?」
 呟く美鶴をチラリと肩越しで振り返るユンミ。
「何よ?」
 睨み付けられ身を引くが、それでも視線を外す事はできない。
 注射器? これって、ひょっとして?
「これって、あの」
 頭に浮かんだ言葉を、だが恐ろしくて口に出せないでいる美鶴の態度に、ユンミは呆れたように瞳を細めた。そうしてぶっきらぼうに答える。
「何? これから血液検査でもすると思ってる?」
 そうして人差し指でチョンッと注射器を弾く。
「クスリに決まってんでしょ」
 その、あまりにも当たり前のように言うユンミが、美鶴には信じられなかった。







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